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鈴木 俊一(すずき しゅんいち、1910年(明治43年)11月6日 - 2010年(平成22年)5月14日)は、日本の政治家、内務官僚。東京都名誉都民、北京市栄誉市民。 東京都知事(第9・10・11・12代)、東京都副知事、内閣官房副長官(第2次岸内閣)等を歴任。 == 来歴 == 山形県出身。のちに東京府北多摩郡中神村(現昭島市)に転居した。旧制東京府立第二中学校、旧制第三高等学校、東京帝国大学法学部卒業。 1933年(昭和8年)、内務省に入省。第二次世界大戦敗戦後の1947年(昭和22年)12月31日の内務省分割後は地方自治庁に配属され、1950年(昭和25年)から1958年(昭和33年)まで地方自治庁(自治庁)の事務次官(1953年(昭和28年)7月までは地方自治庁次長、1954年(昭和29年)以降は自治事務次官)を8年間務める(事務次官在任期間としては戦後最長記録)。地方自治法を初めとする地方自治関連法(地方財政法、自治大学校設置法、地方公営企業法、地方税法、公職選挙法)や東京都の制度は実質的に鈴木が官僚として作り上げたものである。 1958年(昭和33年)、第2次岸内閣で内閣官房副長官に就任し、岸信介首相を支える。翌1959年(昭和34年)、東龍太郎東京都知事の下、東京都副知事に就任し、1967年(昭和42年)まで務める。東は医学者出身で行政にはあまり詳しくなかったため、1964年東京オリンピックの開催を中心にした開発計画をまとめるなど、高度経済成長期の都政の実務は事実上副知事の鈴木が取り仕切り、「東副知事・鈴木知事」などと揶揄されることもあった。 東は1967年(昭和42年)に3選不出馬を表明し、鈴木は自由民主党から都知事選への立候補を打診されるが、結局固辞する。自民党は民社党が擁立した立教大学の松下正寿総長を推薦したが、日本社会党・日本共産党推薦の美濃部亮吉に敗れた〔ただし2010年(平成22年)5月21日、石原慎太郎知事は定例記者会見で1967年の都知事選に言及し、「佐藤内閣のバカな選択で、鈴木さんが候補者から外された」と述べている。〕。東京都副知事退任後、日本万国博覧会事務総長を務め、そののち首都高速道路公団理事長に就任した。 1979年東京都知事選挙に自民・公明・民社・新自由クラブ4党推薦で出馬し、3期で勇退する美濃部知事の事実上の後継者であった社共推薦の太田薫総評議長、無所属の麻生良方らを破り、初当選。革新陣営から都政を奪還する。以後、1995年(平成7年)4月まで、4期16年の長きにわたり東京都知事を務めた。 都知事就任後、鈴木が最初に直面した課題は前任の美濃部が残した膨大な財政赤字の解消だった。鈴木は老人医療費の無料化を廃止するなど、美濃部革新都政の目玉政策だった福祉の大幅な削減や都職員の給与引き下げにより、2期目には都の財政の黒字化を成し遂げる。後に長野県知事を務めた田中康夫は、黒字化を達成するためには相応のことが必要であるにもかかわらず、鈴木の行財政改革についてほとんど批判を見聞きしないことから鈴木都政に関心を持ち、週刊文春での連載「トーキョー大沈入」でも取り上げている。当時は3期目で70代の後半になっていたが、中曽根康弘首相の余暇の過ごし方を聞いた鈴木の秘書がどうすればスケジュールが空けられるか嘆くほどの仕事ぶりだったという〔田中康夫『トーキョー大沈入』「東京都知事」、新潮文庫、ISBN 4-40-143404-2〕。のちの1991年東京都知事選挙のさなかに建設が進められていた新宿区の東京都庁舎が華美過ぎるとの批判を鈴木が受けていた時期にも、田中は鈴木を擁護している〔田中康夫「神なき国のガリバー」 扶桑社、1991年 ISBN 9784594007911〕。 しかし3期目以降、都庁舎の丸ノ内から新宿への移転をはじめ、東京国際フォーラム、江戸東京博物館、東京臨海副都心の開発に代表される箱物行政の推進で多額の起債を発行した結果、都の財政は再び赤字に転じ、美濃部革新都政下の水準にまで悪化した。 1991年東京都知事選挙に際しては、自民党は小沢一郎幹事長の主導により4選をめざす鈴木を推薦せず、元NHK記者の磯村尚徳を擁立する。当時、自民党は参議院で過半数を割り込んでおり、ねじれ国会の運営を円滑に進めるためには、公明党の協力が不可欠であった。しかし自党に80歳定年制のルールを敷く公明党が当時80歳の鈴木の推薦に難色を示したため、利害が一致した自民・公明2党は磯村の擁立を強行し、民社党本部も磯村を推薦する。しかし、鈴木都政を支えてきた粕谷茂ら自民党東京都連の幹部は、党執行部による一方的な決定に猛反発し、鈴木も自民・民社都連の推薦で4選出馬を決断する。また鈴木は田英夫ら、中道・リベラル派からの支持も受け、首都・東京の知事を選ぶ選挙戦で党本部・都連が別々の候補者を推薦する異例の事態に発展した。都知事選には鈴木、磯村、日本共産党推薦の畑田重夫、日本社会党推薦の大原光憲のほか、無所属の内田裕也、浜田マキ子、中松義郎ら泡沫候補が次々に出馬し、総勢16人で争われた。鈴木は高齢批判に対して有権者の前で立位体前屈をして見せて若さをアピールし、磯村は銭湯で高齢者の背中を流す、なりふりかまわぬパフォーマンス合戦が繰り広げられたが、結果、反鈴木票の分散に乗じて鈴木が4選を果たし、磯村擁立を主導した小沢一郎は幹事長を辞任に追い込まれた。選挙後、東京都議会では日本社会党が知事与党に加わり、4期目は事実上のオール与党体制で都政運営を行った。 バブル崩壊の影響もあり、鈴木都政4期目で財政はさらに悪化。鈴木が5選不出馬を表明した1995年東京都知事選挙では、長らく内閣官房副長官を務めた石原信雄が鈴木都政の継承を訴え出馬したが、経営コンサルタントの大前研一や前出雲市長の岩國哲人、社会党を離党した元衆議院議員の上田哲、前参議院議員の青島幸男ら有力候補が次々に立候補。反権力、リベラルなイメージの強い青島が、元エリート官僚の石原らを破り、圧勝した。鈴木が4期目に開催を計画していた世界都市博覧会は1995年(平成7年)の都知事選で争点化し、後任の青島知事により中止が決定された。鈴木は同年起きた地下鉄サリン事件を引き合いに出し、「都政にサリンをばら撒かれたようだ」と発言し、各方面から非難を受けた。 2008年(平成20年)、第2回後藤新平賞を受賞。9月11日の授賞式では車いす姿でスピーチし、元気な姿を見せた。 2010年(平成22年)5月14日、杉並区永福の自宅で死去、99歳。青島幸男の後任の石原慎太郎都知事が5月21日の記者会見で鈴木の逝去に言及し、鈴木を「地方自治の巨星」と高く評価した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木俊一 (東京都知事)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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